『小さい頃は、神様がいて』は、仲間由紀恵が描く“母から自分へ”の再生物語
『小さい頃は、神様がいて』の第2話が10月16日に放送されました。
初回を観た限りでは、あんは、自立心旺盛で、夫の無神経さに耐えられなくてイライラしている女性だと思っていましたが、違いましたね。
どこにでも居る普通の女性なんだけど、ただ、筋が通っていて、自分の気持に素直になれて、一歩踏み出す勇気がある人なんだと思います。
この回で描かれた、あん(仲間由紀恵)の「離婚します。お願いします」という静かなセリフに、SNSでは「心にずどんときた」「わかりすぎて苦しい」と共感の声があふれいましたが、私も大いに共感しました。
母であり妻であり、でも“ひとりの自分”としても生きたい――。このドラマが投げかけるテーマは、まさに同世代の私たちの胸に響きます。
ただ、理解できないという人も居るのも事実で、渉が可哀想という意見も頷けますが、子どもを育てていて同じような気持ちになった人たちには、ものすごく刺さるドラマなんですよね。
あんの「離婚宣言」に込められた本当の意味
第2話の見どころは、やはりあんと渉(北村有起哉)が洗車場で言い争うあの場面です。
娘のゆずを起こさないように家を出て、夜の洗車場で静かに語り合う夫婦。
あんは渉に「子どもが二十歳になったら離婚する」という昔の約束を伝えます。
それは感情的な別れではなく、自分を取り戻すための覚悟の言葉でした。
「私は母として生きるためだけに生まれてきたわけじゃない」
このセリフがどれほど多くの女性の心を揺さぶったことでしょう。
嫌いになったわけじゃない。夫として、父としての彼を否定したいわけでもない。
でも、「妻」や「母」という肩書きの中で、自分がどんどん薄れていく感覚。
それを経験したことがある人なら、このあんの気持ちが痛いほどわかるはず。
ネット上では、「あんちゃんの言葉が刺さった」「まるで自分のことみたい」「このドラマ、泣かせにきてる」と共感コメントが相次ぎました。
まさに“母から自分へ戻る”ための決意の物語ですね。
仲間由紀恵が見せた、母として・女性としてのリアル
仲間由紀恵さんといえば、これまで『ごくせん』の熱血教師、『相棒』のクールな刑事役など、強くてまっすぐな女性を多く演じてきました。
でも今回は、強さの裏に「静かな苦しみ」を抱える女性。
怒鳴りもせず、泣き崩れもせず、ただ淡々と自分の想いを伝える姿に、成熟した女性としての説得力がありました。
以前、仲間さんはインタビューで「母という役を演じるとき、自分の中の“守る感情”が自然に出てくる」と話していました。
第2話のあんもまさにそう。娘を大切に思う一方で、母である前に“自分”を取り戻したいという、切実な願いが表情からにじみ出ていました。
「母としての私」と「私としての私」。
この2つをどう両立させるか――それは多くの女性が直面するテーマですよね。
仲間由紀恵さんの演技には、そのリアルな葛藤がちゃんと映っていたと思います。
北村有起哉との夫婦演技がリアルすぎる理由
渉を演じる北村有起哉さんとの掛け合いも見応えがありました。
どこか不器用で、でも憎めない夫・渉。
あんの変化に気づけない彼の鈍感さは、まるで現実の夫たちのようです。
「別に不満があるわけじゃない」「なんで離婚なんて言うの?」という渉の反応に、多くの妻たちは“あ〜あるある”と思ったのではないでしょうか。
北村さんはこれまでも、映画『有り、触れた、未来』(2023)で、愛する妻と息子を自然災害で亡くし、絶望にくれる役や、家族や夫婦のあり方を問う役も、多く演じてきました。
今回は岡田惠和脚本のもと、より繊細でリアルな「家族のすれ違い」を表現しています。
洗車場で水しぶきを浴びながら、でも心はまったく通じない――あの演出はまさに“すれ違う夫婦”の象徴でした。
岡田惠和が描く「家族の再定義」
脚本の岡田惠和さんは、『ひよっこ』や『最後から二番目の恋』など、人の“再生”を描く名手です。
今回も「家族とは何か」「母とは何か」「自分として生きるとは何か」を、柔らかく、でも鋭く掘り下げています。
特に印象的なのは、「母だから我慢しなきゃ」「妻だから耐えなきゃ」という古い価値観をやさしく否定しているところ。
あんが流した涙は悲しみではなく、ようやく“自分の人生を生きる”ための涙でした。
岡田さんらしい“希望のある悲しみ”が、作品全体を包んでいます。
阿川佐和子・草刈正雄ら脇役が見せた包容力
あんを抱きしめるさとこ(阿川佐和子)のシーンも、涙なしでは見られませんでしたね。
「わかるよ」「大丈夫」――たったそれだけの言葉に、どれほどの救いがあるか。
長年連れ添ってきた慎一(草刈正雄)とさとこの夫婦関係も、渉とあんの対比として深みを出していました。
ホームパーティーのシーンでは、マンションの住人たちが“他人なのに家族のように寄り添う”姿が印象的でした。
共感の嵐が示す、現代女性のリアル
放送後、SNSでは「まさに自分と同じ気持ち」「母だけじゃなく一人の人間として生きたい」という声が多く見られました。
40代・50代の女性たちにとって、“母”の役割を全うしてきたあとの空白感はとてもリアルです。
子どもが独立して初めて、自分の時間が戻ってくる――でも同時に、「私は何者だったんだろう」と感じる瞬間もある。
あんの「自分に戻る」という言葉には、そんな喪失と再生が詰まっていました。
今後の展開にも期待
第3話以降では、あんと渉がどんな形で“再出発”するのかが気になりますね。
岡田惠和さんの脚本には、決して一方的な悪者を作らない優しさがあります。
きっとこの夫婦も、別れを通してまた新しい関係を見つけていくのでしょう。
そして、あん自身が“母でも妻でもない自分”をどう生きるのか――。
これからの彼女の選択に、多くの女性が自分を重ねるはずです。
まとめ
『小さい頃は、神様がいて』第2話は、ただの離婚ドラマではありません。
それは“母”として生きてきた女性が、“私”に戻るまでの物語です。
仲間由紀恵さんの静かな涙、北村有起哉さんの不器用な優しさ、
そして岡田惠和さんの温かい脚本。どれもが胸にしみる時間でした。
きっとこのドラマは、誰かの過去を癒し、誰かの未来を勇気づける作品になると思います。
あんの言動を、ただの我がままと言い切ってしまえば、それだけの話しだけど、「母だから。妻だから」我慢すべきという社会の同調圧力は、ものすごく強くて、みんな、その圧力にバラバラにされそうになるのを、必死に堪えているんですよね。
もちろん、男性だって、「父親だから」「一家の大黒柱なんだから」と我慢を強いられることは多いでしょう。
それでも、経済的な負担を担っているケースが多いことで、少しくらい羽目を外しても大目に見られることはありますよね。
このドラマは、日頃モヤモヤしている私達に、「私も、もう一度“自分”に戻ってみようかな」――
そんな気持ちにさせてくれる、優しい夜のドラマです。
情報元:『小さい頃は、神様がいて』“あん”仲間由紀恵、離婚への固い意思 涙の告白に共感続々「わかりすぎて苦しい」「号泣」